ガソリンの唄A-08.

 考えている瞬間というのは不思議である。
 意識が遠のいているような気さえする。何処を見ているのか見当もつかない。
 何を考えていたのか、考えた。
 どうにも思い出せないが、多分彼女の事とか。自分の事とか、考えるべき事、考えなくてもいい事、考えるべきじゃない事。沢山の事。中二病でも極めれば哲学になるのならば、僕は哲学者になる努力をすれば良かったかもしれない。それとも、随分と昔の、ギリシャにでも生まれれば良かっただろうか。しかしそこには彼女はいない。ならば彼女もそこに生まれればよいか、とそんな所で納得した。

 頬を誰かに打たれている。冷たく小さな手――ではなく。それは、多分、なんだろう、そうだ、雨だった。
「――あ、め」
 口の中が滑っていて、上手く舌が回らない。しばらく喋っていなかったから、だろうか。小気味良く鳴る体を動かし首を回して、そこにいる人の顔を見た。
 汚らしい格好のその人は、当たり前ながら、雨に打たれていた。

「はやし、さん」
「何ですか、蓮さん」
 僕と同じように話していなかった筈なのに、林さんの声は先刻と変わらず、さらさらと、深く、低く、綺麗だった。

「雨。雨です、よ」
「それがどうかしましたか」
「ぬれます」
「もう濡れてます。濡れたくないのなら避けたら如何ですか?」
「林さんは、」
「私は何もしたくないのでこのまま濡れています」
 ああそういう物か、と思う。なら、僕も、これでいいのだろう。何もしたく何かない。ただ考えるだけでいい。実践はいらない。机上の空論だけでいい。それだけで、いい。
 また首を回らして、前を見る。雨脚は強く、容赦なしに僕の全身を蹴り付けた。目に水が入り込み、痛い。思わず目を瞑る。痛いのは嫌なのだ、とふと気がついた。
 
 したい事、したくない事。
 それは、もしかして。

 眼球に黒が張り付く。一体どれほどの時間が経ったのだろうか。空腹だ。体の節々が痛い。既に感覚は麻痺している。それは、多分、全部が全部――

 最初は雨音だと思った。
 次に聞こえたのは、何時だか聞いた――アリア。
 
 
 ――ねえ、秋月君。
 ――中々いい曲だと思いませんか。
 

 彼女はそんな事、少しも言わなかったけれど。あれは彼女の"好き"な曲ではなかったか。
 僕が勘違いしていただけで。僕と彼女は違う人間だから、そう、だから。
 自分と他人が同じ考え方を持っているなんて、同じ感じ方をしているなんて、そんなのは傲慢だ。
 僕はそんな事、知っている筈だったのに。

 僕と彼女が似ている、何てのは。
 それこそ恋人同士の、痛々しい、自惚れでは――

 アリアが消えた。
 
 変わりに、地震のような衝動がある。
 手の平から熱がしみこんでくる――コンクリートが熱なんか、発する訳もないのに。
 ならば錯覚か。なら、この躍動は何なのだ。
 
 どくん、どくんと同じリズムで現れる衝動。
 生まれた時から聞いていたような気がする。
 音に惹かれるままに体を横たえ――コンクリートに耳をつける。

 どくん、どくんと。
 それは。

「……しんぞうの、おとか」

 納得して――軽く、笑い出す。答えなど、知れてしまえば、こんなもの。

「唄ですよ」
「え?」


「答えはいつも、君のそこにあるんです」


 どくどくと鳴る心臓。ああ、雨がうざったい、そう思って立ち上がる。

「帰りたいので、帰ります」
 ようやく綺麗な発音でそういえた僕に、林さんはただ「さよなら」というだけだった。


Side Adult――END.
Continue→SideB.