詩集と死臭-05.

「いやしかし、キレる原因がトイレ行きたいからってどうなの」
 大分動くようになってきた腕を振り、指をほぐす。しかしまだ思い通りに自由自在という訳にもいかないようだった。困った、手を洗いたいのにノブが回せない。そう思っていると横から手が伸びてきて水を出してくれたので、手を洗った。ここはトイレで、とりあえず目的は達成しおわったという所である。すっきりはしたが釈然としない。
 目的に邁進する主人公は格好いいが、トイレに突き進む主人公は果たして格好いいのか。

「まあ、ヒロインにはなれないでしょうね。仲間が危ない! とか、それならまだわかりますけど」
 隣からの甲高い声が、そう同意をしめした。おお気が合う。まあ、どうせそういう器じゃあないからいいのだが。

 がしゃ、と言う色気の無い音がして、目の前の鏡には、赤い首輪を装着したショートカットの女が映っている。その首輪からは鎖――それもファッション用ではない、かなり強度の高そうな――がついており、その先が何処に繋がっているかなど言う必要も無い事のようだった。果たしてこの鏡に映る女は誰だ、私だ。
 鎖の先を巻きつけるように、黒い手袋をした手で握っている人は、少し首を傾げて言う。
「……逮捕しちゃうぞ?」
「可愛らしく言われてもなあ!」
「そうですか」
 けらけら、と笑うとその人は傾けた首を元に戻した。その際、見惚れるように綺麗な黒髪がさらりと動く。肩口まで伸ばされた、耳の横の髪だけではあるが。それ以外の髪は上に結い上げられており、そこには絢爛と呼ぶしかない髪留め――というより簪が刺さっている。そこでまず吃驚してのけぞってみようかと思ったのだが、首輪がついているので不可能だった。そして不味い事実として、その簪をした妙な女性は青い制服を着ている。先刻見たような制服だ。

「あのーもしかして、警備の方?」
 勿論、と女性はけらけらと笑った。

* * * * *


「仲間の仇、取らせて貰うわよっ」
「いやそんな急に少年漫画っぽい事言われても! 大体仇って何ですか! 私なんかしたかおい!」
「私には仲間が二人ほど居ました。外に侵入者ありとの事で、彼らは外に駆け出していきました。しかし私が見回りから帰ってみると、警備員室には誰かが囚われた後、そして彼ら二人の亡骸が……」
「ストップ。え、何、死んでたんですか?」
「殺したんでしょう」
「殺してませんよ!」
「いえ、止めを刺しておきました」
「そうか。それはご丁寧にありがとう――じゃねえよお前何してんだ!」
 流石にトイレで女二人、しかも一方に首輪つけてもう一方がそれを握っている状態でいるのは滑稽にも程があるという事で意見が合致し、とりあえずは外に出た。トイレに急いでいた時には目に入らなかった、聳え立つような本棚を見上げてみる。この部分だけでこうなのだ、ならば全体でどれほど本があるのだろう。しかもこれは公共の物ではなく、個人の私物だと来たから驚きである。こんな所で暮らしたら少しは頭が良くなるかもしれないと思ったが、それはしない。何となく、父さん母さんに申し訳の無い気がするし、それはちょっと虫が良すぎる。
 父さんも母さんも、黙っていれば何処のインテリだというような風貌であったのに、賢くある事への執着が極端に薄い人だった。いや、寧ろ嫌っていたとも言える。私が悪い成績を取ってきたら喜んだし(正直それもどうなのかと思うが)家には電話帳とアルバム以外の本が全く無かった。しかし空きの本棚は大量にあったので、昔は沢山本があったのではないかと思うが、聞けていない。どうでもいいことではあったのだ。

「……待ってくださいよ。構ってくださいよ」
 鎖が引っ張られ、首が少し絞まった所で、意識がこちらに戻ってきた。懐古終了のお知らせ。
 カンザシさんはとってつけたような笑みを浮かべながら、可愛らしく小首を傾げていた。
「いや、構ってくださいとか言われても」
「そんな考え込まれると寂しいじゃあないですか。お前の事なんざ眼中にねえよと言わんばかりです」
「流石に突然首輪はめられてアウトオブ眼中出来る程神経太くな……いや太いかな?」
 瞳が薄く開かれ、じい、と見据えられる。
「何考えてたんです? ここからどう逃げ出すかとか?」
「地球の平和について思う所がありまして」
「ほう。それは中々高尚な話題ですね。どんな結論に?」
「戦争はいけないなあ、と」
「ふむ。それは確かに卓見ですが、よしんば戦争がなくなったとして、圧制が消える訳でもなし、差別が消える訳でもなし、食糧問題や環境の問題もありますよね。その辺りの事のお考えを是非拝聴したいです」
「すみません何も考えてませんでした」
 でしょうね、とけらけら笑われる。しかし先刻からこんなノリで会話を続けているが、彼女は一体私をどうしようと言うのだろう。そこは一応気にしておくべき事柄だった。
「私、どうなるんです?」
「選択肢は二つ」
 カンザシさんはその細い、警備員とも思えないほど綺麗な指を一本立てた。

「ここで死ぬか――」
 ブイサインになる。

「――私のペットになるか」
「ちょっと待て何だその絶妙な二者択一!」
「冗談ですよ」
 ふにゃり、とかわされるような笑顔。しかし私の命運は依然として彼女に握られており、嘘のように赤い首輪に触れ、似合いもしないアンニュイな溜息をついてみた。

「……溜息、似合いませんね」
「うるせえ!」