ガソリンの唄A-03.

 とんとんとんとん、と包丁の音がした。
 
 何の感慨もなくその音を聞き流して自分は、ただ「そろそろ会社に行かないと」とそんな事だけを考えている。考えているだけで、何もしない。だから「先輩、出来ましたよ」と知らない、いやしかし見覚えのある女性が湯気の立つ皿を運んできた時、何が何だか分からなかった。
「お粥にしてみました。別に病気って訳じゃないんだから、って啓司さんは言ったんですけど、食べやすいでしょう」
「あ、ああ――有難う」
 君は、と声に出しかけて、思い出す。確か、大学時代に見た事があるのだ。同じサークルである。対人記憶力は格段にいい僕は、その子の名前を覚えていた。名前を覚える事は、とても役に立つ。記憶に残る人間だと認定されるのは、嬉しい物だ。そうでなくても人間は、自分の名前が忘れられている事など気付かない。

「南野、さん」
「やだなあ。前に見たいに美里って呼んでくださいよ」
 そして彼女は、以前と同じように無邪気な笑みを、僕に向けるのだった。

「圭司さんの彼女やってるんですよ」
 お粥をすする僕の前に座った彼女は、にこにこあっさり、そんな事実を僕に告げた。
「そうなんだ」
「はい。それで、今回は料理作りに召還されたって訳です」
「態々悪かったね」
「いいんですよ。私蓮先輩好きですしね」
 何て、と冗談めかして彼女は言う。
「そういえば美里さんは、どうして圭司なんかと付き合ってるんだい?」
 その冗談のような雰囲気は殊の他心地よく、現実から逃避するのにぴったりのような気がしたので、言った。
「だって、圭司さんだったら幸せにしてくれそうじゃないですか」

 少し、面食った。思ったよりも真摯な答えだったのである。また、情けのない事に、泣けた。

「先輩。大丈夫ですよ」
 手が、包み込まれている。真剣な瞳が見えた。大きめの瞳が、更に開かれている。
「まだ死んでません。生きてるんです。生きてれば、死にません」
 絶対に、とそこは不自然なほどに力が入っていた。死なせてなるものかとでも、思っているようだった。
 神宮さんと彼女は、そんなに仲が良かった記憶が無いけれど――ならばこれは、僕を心配してくれていると見ていいのかもしれない。本当、今時珍しいほどの、そして僕には例え後輩でも勿体無いほどの、出来た子だった。

「ありがとう」

 お礼を言えば、笑顔が返ってくる。無根拠な断定からは、安心を得た。
 それでも、体は動かない。
 まだ死んでいる訳ではないと思いながら、それが自分が活動を始める理由にはならないだろうと、そんな理屈。間違っているわけではないのだが、矢張り何処か違和感のある論理。怠惰が板について来てしまっているのかも知れなかった。それは、とても不味い。
 
 僕は一体どうしたいというのか。

「いいんじゃないですか、このままでも」
 彼女は、そんな甘い誘惑を、僕に持ちかける。
 
「仕事――しないと」
「大丈夫ですよ。そんな物、しなくても」
「生活、できないだろ?」
「圭司さんに面倒見てもらうってのはどうです?」
「馬鹿って言われて叩き出されるよ」
「ですよね。先輩女の子だったら、面倒見てもらえたのにですね」
「そうだね。圭司は女性にやたら甘いし」
 話をずらすように、そんな会話をした。ぬるま湯のような、暖かく心地いい雰囲気から、逃げたくなる。先刻までは冷たい現実から逃避しようとしていたのに、とことん留まろうとしない心だった。
「じゃあ、そうだ、私に面倒見せるってのはどうです、先輩」
 明るく美里さんは言う。「それはいい」と僕も軽く笑った。こんな時でも笑顔は出来る。僕の笑顔は大抵、作っているのだ。全部が全部作り笑顔だから、圭司以外にばれることはなかった微笑。当の圭司は「死体が腐ったみたいに甘ったるい」と表現したが。彼女とも共通の、微笑。

 涙が、出た。

「いいんですよ。何もしたくないんなら、何もしなくても」

 それは一体、何の誘惑だというのか。
 美里さんの腕の感触を感じつつ、しかし僕の瞳は何も見てはいなかった。