ガソリンの唄A-05.

 彼女の見舞いに、行った。昏睡状態は続いている。何が原因だったろうか。確か――薬。何かを呑みすぎたとかだったような、気がする。彼女の両親に頭を下げられたり、頭を下げたり、そんなどうでもいいことばかりが記憶に残っている、彼女が死のうとした日。
 花は既に飾られていて、何故か一本だけ手折られて彼女の上においてあった。それ以外は、酷く整っている。誰か来たのだろうか、誰が来たのだろう、と呆然と、思う。来てもやる事などなかった。だが、家に居るよりはマシかと思っただけである。彼女の顔を、じっと、見つめる。最初の頃、笑顔の浮んでいない、ある意味自然体の彼女を見るのは初めてで、少しだけ緊張した。何度目かになった今も、緊張している。
 一言二言、声を掛ける。何を口走ったのかは覚えていない。気が塞ぐのを抑える事も出来ず、だから逃げるように病室を後にした。だから、自分は一体何がしたいのだ。

「秋月先輩?」

 かけられた声は若く幼く、振り向くと――髪を短く切った、少年が立っていた。いや、既に青年と言った方が良さそうな年齢である。声をかけられたという事は知り合いだ、さあ、思い出せ。
 僕の優秀な記憶力は、その答えを簡単に、事務的にはじき出す。
 
「確か――バスケ部の」
「はい。黒田です。黒田隆一。覚えられてるとは思いませんでした」
 黒田君は、少しだけ不自然に敬語を使った。使い慣れていないのかもしれない。
「そんな事はないよ」
「OB会で、ちょっと会っただけだから。普通、覚えてないですよ」
「君は覚えてたじゃないか」
「そりゃ、先輩は凄かったし、人数も少なかったし。俺らはぞろぞろ居ただけで、俺は大した事ないですし」
「僕は別に凄くないけどな」
 僕の通った学校は中高一貫校だった。高校のOB会に顔を出した時、中学の後輩達の指導のような物を頼まれたのを覚えている。
「先輩の教え方、丁寧だったし。それに、先輩見かけに寄らずすげえ強いって評判でしたし」
「その評判は褒められてるのか微妙な線だな」
 僕が部活に入ったのは、単に心証がいいかと思っただけ。バスケットボール部を選んだのは、友人から誘われたのと、丁度同学年が四人しか入部していなかったから。それだけの、打算的な行動でも、褒められる事がある。
 黒田君は、先刻から瞬きを殆どしない。真直ぐに、僕の事を網膜に焼き付けるように、瞳を見開いていた。
「バスケ、どう? 最近」
「やめました」
「…………」
 最近は、よく地雷を踏む。楽な世間話をしようかと思うと、必ず失敗するのだ。厄月なのかもしれない。そんな言葉は聞いた事もないけれど。
 
「怒らないんですか?」
「どうして僕が頭ごなしに怒るんだ」
 不思議そうな黒田君に、同じように不思議そうに返した。
「君の事を僕は知らない。君の理由を僕は何も知らないんだ。幾ら先輩だからって、怒る権利はないだろ」
「先輩は、理不尽に怒るもんですよ」
「じゃあ、先輩失格だな」
「ですね」
 その時、黒田君のポケットに、押しつぶされた箱が見える。
「おい、未成年。煙草は駄目だぞ」
「それ、ちょっと先輩っぽい」
 そこで黒田君は猫のように笑った。中々魅力的な笑みである。
「煙草じゃない。シガレットです」
「シガレットって、煙草だろう?」
「そういうお菓子があるんですよ」
 ポケットから潰れた箱を取り出し、中から白い棒を取り出す黒田君。あああれか、と何だか納得した。ラムネ菓子のような味のするお菓子だ。懐かしい代物だった。

「どうしてそんな物?」
「煙草が恋しいんで」
「結局前吸ってたんじゃないか」
「……ああ、そうか」
 そこで何故か納得したように頷くと、黒田君はまた笑った。
 
「少し嬉しくなりました」
「何で?」
「秋月先輩も、人間だなあと」
「うん?」
 首を傾げる僕の目の前で取り出したシガレットを咥え、少し照れたように笑ってから黒田君は挨拶をして去って入った。何でも、片思い中の相手のお見舞いらしい。ならば僕の仲間だろう。シガレットを咥えるその姿は、小さい子供が大人の真似をして格好つけているようで、中々可愛らしかった。